東北
  前シテ:里女  後シテ:和泉式部   ワキ:旅僧


  年立ちかえる春……立春のころのお話です。花のほころび始めた京都へと東国のお坊様が旅に出ました。京の都についたお坊様は、今を盛りと咲く梅に目をとめます。
  その美しさにさぞや名のある梅であろうと思い、通りかかった人に尋ねたところ、“和泉式部”という名であると教わりました。
  その梅に見とれるお坊様。するとそこへ、声をかけて来た人があります。

「もし、お坊様。
  いま、その梅の名を尋ねておいででしたね、何とお聞きになって?」

  美しく若い女性です。この辺りに住む人でしょうか。
  お坊様は“和泉式部”と教わった、と答えます。しかし女性はそれに異を唱え、梅について語り始めます。

  この寺が上東門院すなわち一条天皇の后・彰子の住まいだった頃のこと。中宮彰子に仕える和泉式部が梅を植え、“軒端の梅”と名付けて日々眺め、愛していた……その梅がまさにこの木であると。“軒端の梅”の傍らには和泉式部の臥所であった方丈があります。梅も方丈も往時のままの雅やかな風情です。

  年を経てなお色香を増している梅。女性はその梅の花が自分の住まいだ、と語ります。
  花に住むとは?

  いつしか黄昏時となっていました。その影に紛れるように、木陰に身を隠すようにして女性は姿を消してしまいます。


  夜になりました。
  女性が和泉式部であると確信したお坊様は軒端の梅の陰で経を読誦します。
 そこへ、現れました。在りし日の姿そのままの、和泉式部の霊が。

「ああ、有難いお経ですこと。今、読誦しておられたのは譬喩品ですね。
  ……思い出しましたわ、あの時のことを。道長様がこの門前をお通りになったとき、御車の中から法華経の譬喩品を高らかにお読みになる声が聞こえました。それで、
   門の外法の車の音きけば 我も火宅を出でにけるかな
  という歌を詠みましたの。今のお経で思い出しました……」
「その歌の心の如く、火宅はもうお出になっておられましょうか」

  火宅とは火事の家で、煩悩のことをいいます。
  法華経の譬喩品にあるお話から来た言葉です。この世での執着心ゆえの苦しみに気付かぬ人を悟りへと導くことを、燃えさかる家にいながら気付いていない子どもに「素適な車をあげるよ」といって家から出てこさせる話で喩えています。「火宅を出ましたか」とは、執着心は捨てましたか、成仏なさいましたか、と尋ねているのです。

「ええ、出ました。私ね、詠みおきました和歌のおかげで歌舞の菩薩となりましたのよ」
「それで今なおこの寺におられるのですね」

  死んでなおこの東北院に現れた和泉式部をお坊様は心配なさったのでしょうね。この地を離れていないのは思いを残したために成仏していないからではないかと。
  けれど和泉式部は歌舞の菩薩となっていたのです。火宅を出て。

「今は……もう?」
「ええ、おかげさまで……。」

  お坊様はさらに念をおしています。それもそのはず。和泉式部といえば恋多き女性として有名で、彼女の恋愛模様は世上をかなり賑わしたものでした。お坊様が俗世への執着心を捨て切れていないのでは、と思ったのも無理はありません。

  しかし、心配はいりません。和泉式部は才気あふれる人で2000首以上もの素晴らしい和歌を残しました。和歌はそれ自体が神仏の陀羅尼でもあります。素晴らしい和歌を数多く詠みおいた彼女は、誰よりも功徳を積んでいたのです。

  ここ、東北院は平安京の東北の地、鬼門を守護する位置にあります。傍を流れる賀茂川・白河を流れる水音、水面を渡る風が悪しきものを清めます。
  大勢の参詣人で賑わい、都らしく華やかな東北院。ここは仏様に出会い、そのお話を聞くことのできるこの世における浄土そのものです。谷底から吹き上げる風は上へ向かって悟りを求める心を表し、池水に映る月は菩薩が衆生一人一人の心にその姿を映し出す有様を表しているのです。
  東の陽、北の陰が会う時節。それは二月、今はまさにその春の夜。

  和泉式部は闇夜に漂う芳しき梅の香の中、舞います。

  漆黒の春の夜の闇。おかしなものですね、そこに咲いている梅の姿は見えませんのに、その香りは隠せないんですものね、ほら……

  本当に、あの頃の私は梅の色と香りに染まるように、恋の色香にずいぶん身も心も染めておりました……あの日々が思い出されますと、懐かしさに思わず涙がこぼれます。ああ、昔を恋うる涙の落ちるさまを人にお見せするのはなんともお恥ずかしいことです……

  もう、これでお暇いたします。花が根にかえり鳥が旧巣に帰ると申しますもの、私も帰ります。方丈に灯る明かりを見て、人は和泉式部の火宅の火だと思うのでしょうね。けれど、こここそ花のうてな、浄土の蓮花台であり、和泉式部の臥所なのですよ……

  そういって、和泉式部は方丈の室に入っていった……ように思ったのですがそこでお坊様は夢から覚めたのでした。

<R.M>