<第六回・九月>
「秋の水 (みなぎ)り落ちて去る舟の 月も影さす棹の歌。」
                            『江口(えぐち)



  まだ暑いとはいえ、涼しい風が心地よく、過ごしやすい季節になってきました。秋の訪れです。先月は“星”の月でしたが、今月は“月”の月です。空気が澄んでいるこの季節は月を見るのにもっとも適した月といわれています。今年の中秋の名月、旧暦の8月15日は、9月21日。虫の音に耳を澄ませながら夜空を見上げてみてください。


  今回取り上げる曲は『江口』です。
  「世の中を(いと)ふまでこそ(かた)からめ(かり)の宿りを惜しむ君かな」
  「世を(いと)ふ人とし聞けば仮の宿に心(とど)むなと思ふばかりぞ」
  昔、西行法師と江口の遊女との間にこのような歌のやりとりがなされました。一夜の宿を求めて断られた西行が詠んだ歌と、それに対する江口の遊女の返歌です。その江口の里を訪れた僧がこの逸話を思い出して西行法師の歌を口ずさんでいると一人の女性が現れ、江口の遊女の歌の真意を説きます。そのあまりの詳しさに僧が不審に思うと、その女性は自分が江口の君であることを明かして消えます。
  僧が夜もすがら遊女の君の霊を弔っていると、江口の君たちが川遊びをしに出てきました。月に照らされるなか、川に舟を浮かべて昔のように遊びます。華やかな川逍遥を見せつつも遊女という身の罪業の深さを嘆き、世の無常、執着心の罪深さを説いて江口の君は舞います。江口の君は実は普賢菩薩の化身だったのです。僧を悟りへと導くと普賢菩薩の姿を表し、舟は普賢菩薩の乗り物である白象となって白い雲に乗り、西の空へと消えていきました。


  今回のテーマは「秋の月」ですが、『江口』のお話の中心となるものは月ではありません。月そのものを題材にした曲なら『融』などの方がふさわしかったかもしれません。けれど、この『江口』では話の中心ではないからこそかえって印象的なのだと思います。
  冒頭の僧の謡から月は顔を出しています。

  「月は昔の友ならば 月は昔の友ならば 世の外いづくならまし。」

  在俗の頃から月は変わらず心を慰めてくれる友である。それならば俗世間から離れた世界というのは一体どこにあるのだろうか。と、僧は悟りを求めています。
  そんなところへ現れたのが江口の君です。江口の君は月明かりに照らされて華やかに舟遊びをしてみせます。

  「秋の水 漲り落ちて去る舟の 月も影さす棹の歌。」

  「秋の水漲り来たって船の去ること速やかなり
   夜の雲収まり尽きて月の行くこと遅し」 (『和漢朗詠集』)

という漢詩からの引用です。秋なので雨量が増えて川の水かさが増しており、舟はすべるように走っていきます。そこへ、曇りのない空で動きの緩やかに見える月の光が舟へさし込んできます。そんな光景のなかで遊女たちは棹をさし、舟を走らせて歌っているのです。実に華やかで美しい風景です。水面に映る月までもが見えるようです。
  しかし、最後に江口の君――普賢菩薩はこう僧に言うのです。

  「花よ紅葉よ 月雪の古事も あらよしなや。」

花だ紅葉だ、月がきれいだ雪がきれいだ、なんていうことも昔の思い出も、全てはつまらぬことよ、と。
  この言葉で僧は悟りに導かれますが、煩悩まみれの私は目の前の美しい風景に心奪われていたところで足をすくわれた体となり、愕然とするのです。そんな私の気も知らないで江口の君はあでやかに微笑み、普賢菩薩と変身して西の空へと帰っていってしまいます。あとに取り残された私はなんだかよく分からないながらも『江口』をもう一度観たい、普賢菩薩さまに逢いたい、と思うのです。それも煩悩なのでしょうが遊女の境涯もそれに徹しきれば菩薩となりうるのなら煩悩を突き詰めて辿り着ける境地もあるのかしら、とそう考えながら……いえ、そう考えたことなどすっかり忘れてまた能を観に出かけるのです。

<R.M>