<第十一回・一月>
「雪の下なる若葉をば今幾日ありて摘まゝし。」
                         『二人静(ふたりしずか)



  年が改まって日も経ち、お正月気分ももう終わらなくてはなりません。一月七日は五回ある節句の一番目。そう、七草粥を食べる日です。皆様のご家庭では七草粥をお食べになりますか? お餅と日持ちさせるために濃い目に味付けられたお節料理もそろそろいいかな、というころに食べる青菜の入ったおかゆは実にさっぱりしててことさら美味しく感じられます。非日常的な日々の始まりである元旦より、こちらのほうが実際に新しく一年の活動を始める日にふさわしい気がします。

  『二人静』はその正月七日に起こったお話なのです。菜摘女が静御前の霊にとり憑かれるのですが、それは神社にお供えする若菜を摘みにいった時に静御前の霊に出会ったことから始まりました。
  はじめ、静御前は正体を明かさずにただ「私の供養をして欲しい」と菜摘女に頼みます。そのことを帰ってみんなに伝えて欲しい、もし信じてくれそうになければその時はあなたにとり憑いて直接説明するから、と。菜摘女は驚いて神社へ帰りそのことを伝えます。しかし、自分自身が半信半疑でした。「嘘みたいな話ですけど」と言ったところ、静御前がとり憑き、自ら回向を頼むのです。
 その後、静御前は得意の舞を舞いながら昔の思い出―義経のこと、頼朝の前でまわされたことなど―を語るのです。舞台では菜摘女に静御前の霊が取り付いている様が同じ姿をした二人の静が舞うことによって表されます。だから「二人静」なのです。とり憑かれる人の出てくる曲は他にもありますが、このように二人の姿で表すものはありません。

  さて、その菜摘女が若菜を摘みに出た野辺はまだまだ雪に埋もれていました。ところは吉野山。山深いこの場所ではまだまだ雪が積もっているけれど、都ではもう雪は解け、菜を摘む頃になっているのだろうと思いを馳せます。

「雪の下なる若葉をば今幾日ありて摘まゝし。」

  この寒い吉野山のこの雪の下に潜んでいる若菜も、あともう幾日かしたら顔を出して摘まれる頃になるんだわ、といいます。もっとも、神様にお供えする神事のためですからこの時はその雪をかきわけて若菜を探したのでしょう。

  七草粥には春の七草を入れます。
「芹なずな御形はこべら仏の座すずなすずしろこれや七草」
という歌があり、それぞれ、芹・なずな・母子草・はこべ・田平子・蕪・大根にあたるといわれています。ですがこの七草、一月七日にお粥に入れるのはちょっと厳しいと幼い頃から思っていました。野菜として冬ならば常に店頭に並ぶ蕪や大根、芹はともかく、ナズナやハコベは三月頃にようやく見かけるからです。いつもハコベやナズナが生えるところを見ても一月の始めには見つからず、我が家では他の種類の菜っ葉を入れて一応数だけは七種類ということにしていました。
  その謎が解けたのは旧暦と新暦のことを知った時です。今の一月七日より、昔の人の一月七日はもっと遅くにあったのだとわかった時、何とか七草も間に合うのかもしれない、と思ったのです。
  けれども、この『二人静』で菜摘女は、若菜はまだ雪の下にあるといっています。山の上だからまだまだ寒いのでしょうが、これでは都より寒い地方でも同じように若菜はまだ雪の下にひそんでいるのでしょう。

  静御前の霊はなぜこの若菜摘みの時に出てきたのでしょう。静御前が吉野山で義経と別れたのは十一月のことですし(謡曲では三月とされています。)、頼朝の前で舞ったのも義経が死んだのも四月のことなのです。雪の下にひっそりと息づく若菜を見つけ神前に手向ける菜摘女ならば、雪に閉ざされるように吉野山に想いを残す静の魂の哀しさに気付いてくれると思ったのでしょうか。

<R.M>